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みやざきマンゴー物語(上)

2017年4月29日

未知の果実 産地化への挑戦


初めて収穫した西都産マンゴーの試食会を伝える1988年の宮崎日日新聞

初めて収穫した西都産マンゴーの試食会を伝える1988年の宮崎日日新聞

 フルーツの女王マンゴー。本県の完熟マンゴーは、加温栽培で全国一の生産量を誇り、今年は1047㌧の収穫を見込む。最上級品は「太陽のタマゴ」の愛称で全国に流通。今では本県を代表するブランドに成長した。しかし、産地化、ブランド化までの道のりは苦難の連続だった。

マンゴーの味に感動 8戸の農家でスタート

 1985(昭和60)年3月、西都市鹿野田地区の農家は、ピーマン、キュウリに代わる新しい作物を求め、県総合農業試験場亜熱帯作物支場(現・日南市南郷町)に向かった。その時、支場長に勧められたのがマンゴーだった。

 当時、マンゴーは県内では県総合農試内に植えられていた程度で、栽培暦はおろか、ほとんどの農家は実物を見たこともなかった。まずは沖縄産マンゴーを取り寄せ、試食した。甘い香りと深いコク。「気候の違いは技術で補える。未知のこの果実を西都でつくろう」と誓い合った。

楯彰一さん

楯彰一さん

 さらに前年、JA西都の技術員だった楯彰一さん(71)=宮崎市佐土原町=が水稲、野菜と並行してできる果樹を探し、沖縄県を視察、マンゴーに出会っていた。日本人好みの鮮やかな紅色と高級感、甘くて爽やかな味に「いける」と直感した。

 85年6月、生産者からマンゴー導入の話を持ち掛けられた楯さんは、JAや経済連のバックアップ体制づくり、部会設立や資金の工面に奔走。農家8戸のハウスマンゴー部会が結成され、組織的な加温栽培が幕を開けた。

栽培・販売への不屈のチャレンジ

 翌年から苗や穂木を取り寄せ、展示圃12㌃で、食味の良い「アーウィン」の栽培をスタートさせた。しかし、土壌作りから、温湿度、摘果のタイミングまで分からないことだらけ。何度も沖縄を訪れ、技術指導を受けた。「8人寄れば…で毎晩、知恵を持ち寄った。明けても暮れてもマンゴーの話ばかり。先は見えなくても、夢があって楽しかった」。部会結成時のメンバー金丸敏幸(75)、曽我一敏(75)、安藤優(70)さんは試行錯誤の日々を振り返る。

JA西都ハウスマンゴー部会結成時のメンバー安藤優、金丸敏幸、曽我一敏さん(左から)

JA西都ハウスマンゴー部会結成時のメンバー安藤優、金丸敏幸、曽我一敏さん(左から)

 88年8月に210㌔を初出荷。「生産者が自ら行動して結果を出そう」。贈答用の高級果実として、初めから東京へ売り込んだ。試食会も行い、味にも自信を深めたが、大きな壁が立ちはだかる。当時のマンゴーは「おいしくない」など輸入のイメージが先行。高級フルーツ店や卸業者から「日持ちがしない」などとはねつけられた。地元で再スタートを図るが、切ったマンゴーを客に勧めても手を振って断られる日々が続いた。

 それでも諦めなかった。JAや経済連、県の支援を受けながら、土日になると、生産者自ら試食や対面販売を繰り返し、軽トラに幟を立てパレードするなど、地道にイメージアップを図った。そんなある日、完熟にこだわった画期的な収穫法が生まれる。