湖面を照らす夕日がキラキラと反射していた。山あいの日暮れはあっという間だ
吉川英治に名付けられた奥深い山の湖
深まりゆく秋の夜明け前、奥深い山の湖に冷たい風とともに霧が立ち上る。朝日に揺らぐ湖面の蒸気。その向こうに山里の陰影がぼんやりと浮かぶ。九州中央山地国定公園内にある「日向椎葉湖」。1955(昭和30)年、2級河川・耳川上流に建設された日本初のアーチ式ダム「上椎葉ダム」でできた人造湖だ。九州電力が管理する発電用ダムの高さは110メートル、幅341メートル。最大9200万立方メートルの水をたたえ、直径5メートル、延長3200メートルのトンネルで結ぶ発電所で最大出力9万3200キロワットを生産している。
ダム建設で民家73戸、学校1校が沈み、熊本県側に移住を余儀なくされる人もいた。ただ、当時のにぎわいは語り草となっている。椎葉史談会会長の黒木勝実さん(75)は「工事関係者で活気づき、村の人口は最盛期には2万人近くまで膨れ上がった。2軒の映画館があり、連日オールナイト上映した」と回想する。
新たに生まれた湖は村の観光資源になり、ダム完成7年後の62(同37)年、小説家吉川英治によって名前が付けられた。「吉川さんの『新・平家物語』に椎葉が登場したこともあり、岡田基一村長らが上京して依頼した」と黒木さん。病に伏していた吉川はその後この世を去り、命名した湖を見ることはなかった。
湖を一望する山腹に住む那須久市さん(63)は、稲刈りの手を休め「毎朝眺める湖の景色はすがすがしい。特に春の桜と秋の紅葉が美しい」と穏やかに語る。そこには訪れる人だけが味わえる癒やしの空間がある。きらめく湖面を眺め、日常の雑念を忘れている自分がいた。
【メモ】日向椎葉湖はニジマスやヤマメなどの釣りの名所。椎葉夏まつりでは、ダムから壮大な花火が上がる。11月11~13日は椎葉平家まつり。問い合わせは椎葉村観光協会TEL0982(67)3139。