椎葉村山腹の水田は10月中旬、稲刈りの最盛期。湖を望む絶景が谷風の強い厳しい環境での農業に潤いを与えている

吉川英治に名付けられた奥深い山の湖

 深まりゆく秋の夜明け前、奥深い山の湖に冷たい風とともに霧が立ち上る。朝日に揺らぐ湖面の蒸気。その向こうに山里の陰影がぼんやりと浮かぶ。

 九州中央山地国定公園内にある「日向椎葉湖」。1955(昭和30)年、2級河川・耳川上流に建設された日本初のアーチ式ダム「上椎葉ダム」でできた人造湖だ。九州電力が管理する発電用ダムの高さは110メートル、幅341メートル。最大9200万立方メートルの水をたたえ、直径5メートル、延長3200メートルのトンネルで結ぶ発電所で最大出力9万3200キロワットを生産している。

 ダム建設で民家73戸、学校1校が沈み、熊本県側に移住を余儀なくされる人もいた。ただ、当時のにぎわいは語り草となっている。椎葉史談会会長の黒木勝実さん(75)は「工事関係者で活気づき、村の人口は最盛期には2万人近くまで膨れ上がった。2軒の映画館があり、連日オールナイト上映した」と回想する。

 新たに生まれた湖は村の観光資源になり、ダム完成7年後の62(同37)年、小説家吉川英治によって名前が付けられた。「吉川さんの『新・平家物語』に椎葉が登場したこともあり、岡田基一村長らが上京して依頼した」と黒木さん。病に伏していた吉川はその後この世を去り、命名した湖を見ることはなかった。

 湖を一望する山腹に住む那須久市さん(63)は、稲刈りの手を休め「毎朝眺める湖の景色はすがすがしい。特に春の桜と秋の紅葉が美しい」と穏やかに語る。そこには訪れる人だけが味わえる癒やしの空間がある。きらめく湖面を眺め、日常の雑念を忘れている自分がいた。

【メモ】日向椎葉湖はニジマスやヤマメなどの釣りの名所。椎葉夏まつりでは、ダムから壮大な花火が上がる。11月11~13日は椎葉平家まつり。問い合わせは椎葉村観光協会TEL0982(67)3139。