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湿原再生の功労者

2020年2月26日
 気さくで大変話題の豊富な人だった。87歳で亡くなった元南九州大教授・山本友英さん。シオデの培養について聞くため高鍋町の研究室を訪ねたところ、自ら車を運転して、うどん店に連れて行ってくれた。

 冗談やだじゃれが好きで周囲をよく笑わせた。本人によると最初のギャグは東京で過ごした少年時代。一緒に歩いていた父が新しく誕生した東条英機首相の話をしたので「いよいよトージョー(登場)したか」と口に出そうとしたが、緊迫した世相からのみ込んだ。

 1942年4月18日、小学4年の山本少年は家の上を低空で飛ぶ見慣れない飛行機を見上げた。その後、空襲警報が鳴って遠くに黒煙が上がった。米空母から飛び立ったB25爆撃機による東京初空襲。戦争末期には命からがら疎開し、父の古里である高鍋町に落ち着いた。

 東大農学部卒業後、日本専売公社(現JT)を経て研究者に。高鍋湿原で絶滅寸前だったサギソウを増殖した功績で、2000年に宮崎日日新聞賞を受賞した。同湿原再生は全国から視察が訪れるモデルとなったが、山本さんは自然のままを尊重し湿原を観光に役立てる考えとは一線を画していた。

 音楽家の山本さんの方に親しんだ県民も多いはずだ。室内楽、交響曲などを次々に作曲。自ら指揮をし、合唱団を指導した。鉄道マニアで将棋大会の常連だった一面も。多才ぶりを惜しげもなく発揮し、次々活動の渦を巻き起こした文化人がまた1人去った。

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