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鵬翔 夢の日本一

(上)本県競技力

2013年1月22日
■指導者競い合い強化/宮崎国体機に底上げ

 「こんな日が来るなんて。最高の気分」。東京・国立競技場。2万5千人の観衆が詰め掛けた第91回全国高校サッカー選手権決勝のピッチに、本県の鵬翔イレブンがいた。宮崎農元監督で、県サッカー協会顧問の野地康雄(74)は、悲願の日本一の瞬間を目に焼き付け、声を震わせた。

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 全国高校選手権が1県1代表制になったのは第62回大会(1983年度)からで、それまでは九州予選などを突破する必要があった。県勢は第35回大会(56年度)に延岡向洋(現延岡工)が初出場を果たすが、当時は競技人口が少なくてレベルも低く、上位進出は夢物語だった。

 野地は「70年代に入っても専門の指導者のいる高校は少数。スポーツ少年団もわずかで、指導体制の整った静岡や広島などの強豪県に勝てなかった」と振り返る。

 当時、県勢の先頭で全国に挑戦していたのが、宮崎工元監督の上原三朗(64)。79年の宮崎国体に向けて強化していた同校を率いて同年の第58回大会で8強入り。しかし、優勝した帝京(東京)に0-6と完敗し、「全国で一つでも多く勝ちたいと、猛練習に励んだが、4強入りは現実的ではなかった」。

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 サッカー後進県だった本県の底上げが進んだのは80年代。全国的なサッカーブームに乗り、競技人口が増加。宮崎国体で優勝した教員チームの主力として活躍した戸田光義(62)=県サッカー協会専務理事、都城西高教、=や五六和明(57)=妻高教=、鵬翔サッカー部を立ち上げた松崎博美(62)らの指導で競技力を高めていった。

 彼らに刺激を受けた上原は、第73回大会(94年度)に2度目の8強入りを果たす。九州のレベルも年々向上。第63回大会(84年度)の長崎・島原商を皮切りに、長崎・国見(第66回など6大会)鹿児島実(第74、83回)東福岡(第76、77回)が優勝。各県の熱心な指導者が競うように日本一を目指した。

 県内では90年代に入ると、帝京の主将として第56回大会(77年度)で優勝した早稲田一男(53)率いる日章学園が台頭。宮崎工と鵬翔の2強に割って入るようになった。第83回大会(2004年度)で鵬翔が初めて準々決勝に進出すれば、第89回大会(10年度)には日章学園が8強入りと、本県の競技レベルは全国制覇を見据える段階に入っていた。

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 それだけに今回の鵬翔の優勝は本県サッカー界を大いに勇気づける。県大会決勝で敗れた宮崎日大監督の南光太(33)は「身近な存在が日本一になり、自分たちもできるという希望が生まれた」。日章学園の早稲田は「前評判が高くなくても一体感や団結力があれば、県内のチームでも勝てることを証明してくれた」と評価する。

 県協会の戸田は「県内の少年たちに宮崎でも日本一になれると示した。選手の県外流出が減り、本県の競技レベルが上がるだろう」と期待を寄せた。

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 全国高校サッカー選手権で鵬翔が県勢で初めて優勝する偉業を達成した。同選手権に県勢が初出場してから56年。苦難の歴史を振り返るとともに、悲願を達成した鵬翔の強さの秘密を探った。(敬称略)

【写真】優勝メダルを首から下げ、日本一の喜びに浸る鵬翔イレブン

(上)本県競技力2013年1月22日付
(中)堅守2013年1月23日付
(下)絆2013年1月24日付

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