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少年たちの栄光と挫折~伊東マンショ没後400年

(1)運命

2012年11月6日
■代役から使節首席 人格備わり白羽の矢

 天正遣欧少年使節として10代で欧州に渡り、日欧親善に大きな功績を残した伊東マンショが世を去って400年。出身地の西都市をはじめ、ゆかりの地では少年たちの偉業に再び光が当てられており、11日には同市都於郡城跡で没後400年の記念式典も開かれる。青春の舞台となった長崎などを巡りながら、彼らの栄光と挫折に触れる。(西都支局長・伊佐賢太郎)

 長崎県大村市。長崎空港に続く箕島大橋のたもとに、天正遣欧少年使節4人の銅像が颯爽(さっそう)と立つ。海原を指さす伊東マンショ。その横に左から千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。

 先頭はマンショ。3人の位置は約1メートルの距離があり、マンショが使節首席だったことを象徴する。少年たちが長崎を出港して400年に当たる1982(昭和57)年、使節ゆかりの同市と波佐見町、旧千々石町(現雲仙市)、西海町(現西海市)などでつくる顕彰会が建立したものだ。

 大村市は、国内初のキリシタン大名、大村純忠の歴史を通して使節を顕彰している。4人のうち正使は2人。マンショは大友宗麟(大分)の名代(みょうだい)、千々石ミゲルは大村純忠(長崎)と有馬晴信(同)の名代として派遣された。マンショは大友氏とは遠縁。キリシタン大名の中でも宗麟の力は大きく、都於郡城史文化研究会会長の竹下勇(76)は「首席になったのは宗麟の名代だったことが大きい」とみる。

 マンショの人生を運命づけた巡察師アレッサンドロ・ヴアリニャーノは、1579(天正7)年に来日。布教拡大のため少年たちを欧州文化の素晴らしさを日本人に伝える語り部とし、ローマ法王やポルトガル国王から布教資金を受けようと考えていた。

 当初はマンショのいとこで、安土(滋賀)のセミナリヨ(中等神学校)で学んでいた祐勝が予定されていたが、呼び寄せる時間がなく、有馬(長崎)のセミナリヨにいた13歳前後のマンショに白羽の矢が立つ。代役から一転、首席に抜てきされ、フェリペ2世やローマ法王グレゴリオ13世の謁見(えっけん)時も先頭に立った。

 「10代で欧州に渡り、国王らを相手に堂々と応じた。首席の人格が備わっていたと思う」。使節を研究し、2004年に千々石ミゲルのものと思われる墓を発見した長崎歴史文化博物館研究グループリーダーの大石一久(60)はマンショをこう評する。

 マンショは都於郡伊東氏第10代・義祐の孫として生まれるも、島津氏に敗れ8歳前後で豊後落ち。そこでキリスト教に出会い、自身で道を切り開いていく。(敬称略)

【写真】大村湾を見渡す場所に立つ天正遣欧少年使節の銅像。首席の伊東マンショ(左)が4人の先頭に立つ=長崎県大村市

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