ホーム 特集

宮崎に生きて 沖縄本土復帰40年

(上)基地問題

2012年5月13日
■「状況変わってない」

 沖縄県が1972(昭和47)年5月15日に本土復帰を果たし、今年で40年がたつ。戦争の記憶は薄れる一方、在日米軍専用基地(施設)の7割以上が沖縄に集中し、いまだ日米の政治的摩擦に翻弄(ほんろう)され続けている状況だ。本県には戦中戦後に多くの沖縄県出身者が移り住み、3世代で定住する家族もいる。世代間の意識格差は自明の理だが、故郷沖縄を愛し、憂う思いは年月を経ても根底に流れ次世代へと受け継がれている。

■危機感抱く移住者

 「40年経過しても沖縄の米軍基地の状況は変わらず、素直に祝う気分にはなれない」―。宮崎沖縄県人会(大城規由会長)が4月29日、宮崎市内で開いた「沖縄本土復帰40年祝賀会」。琉球舞踊やエイサーなどにぎやかな雰囲気に包まれる会場で、宮崎市下北方の新城敏晴さん(76)は複雑な心情を吐露した。

 沖縄県本部町で生まれ育った新城さんは、8歳の時に沖縄戦を経験。捕虜収容所で終戦を迎え、少年時代を米国統治下で過ごした。街には米国国歌が流れ、「(沖縄の人は米国人に)投げキッスで死刑、(米国人は沖縄の人に)性的暴行をしても無罪という言葉をよく耳にした」と証言する。極端な言葉だが、当時の沖縄で米国人がいかに優位的であったかを如実に表している。

 本県で暮らし始めたのは、宮崎大への留学がきっかけ。当時はパスポートが必要で、国籍欄の「琉球人」との記載には、「自分には国籍がないのかと思い、無性に悲しかった」。本土復帰は「喜びも大きかったが、基地を残したままの復帰に落胆も大きかった」と視線を落とす。

 今は、進展しない基地の現状に危機感を抱く。「基地があるために街の形成も思うようにできず、発展を妨げている。これ以上踏みにじられてたまるか」と憤りを隠さない。そして、「基地反対と訴え続けるのが、故郷沖縄への自分の役割だと思う」と力を込めた。

   ◇     ◇

 宮崎市波島には、戦時中の強制疎開や戦後に、沖縄県民約300世帯が移り住んだ。戦闘機製造企業の社宅が使用されないまま多く空いていたためだという。山内武さん(74)も戦時中、沖縄県与那原町から波島に来た。「すぐに沖縄に帰りたかったが、戦争で父は命を落とし、帰りたくても帰れなかった」。57(昭和32)年にようやく帰郷。しかし、「かつての美しい風景はどこにもなく、故郷と認めることができなかった」と戦争の深いダメージを感じた。

 同じく強制疎開で那覇市から小林市に移り住んだ宮崎市下北方の伊波盛茂さん(83)も、戦後に訪れた故郷の変容を言う。「コンクリートの家や英語の看板が連なり、すれ違う人は知らない人ばかり。浦島太郎の悲しさが理解できた」と振り返る。

 故郷の変貌を目の当たりにした2人だが、本土復帰には何物にも替え難い感激を覚えた。一方、いまだに基地問題に揺れる現状に山内さんは「基地への反対を訴える人と共存を訴える人がいる。宮崎に住む自分は発展につながる結果を望むしかない」と、遠くから故郷を思う歯がゆさもにじませる。

【写真】本土復帰を記念して40年前に宮崎市波島地区の公園に植えられたクスノキと、それを見上げる宮崎沖縄県人会会員たち。立派に成長した姿に時間の経過を実感する

宮崎に生きて(上)基地問題2012年5月13日付
宮崎に生きて(下)3世代2012年5月14日付

関連記事

powered by weblio


ロード中 関連記事を取得中...