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知見次代へ 土呂久鉱害45年

【第6章・伝える】(1)告発した元教諭 齋藤正健(まさたけ)さん

2016年6月15日
40年ぶり沈黙破る

 1920(大正9)年ごろから続いた高千穂町の土呂久ヒ素鉱害。大学卒業後に初めて赴任した岩戸小(同町)で問題を告発した齋藤正健(まさたけ)さん(72)=国富町木脇=は、今も教育者として子どもたちと向き合っている。被害者の苦しみや悲しみ、怒り…、そして支援者の真心や協力者への感謝の気持ちは、教師人生で最も大切な財産となった。告発後は「自分は鉱害問題に火を付けただけ」と公の発言を控えてきたが、今回、約40年ぶりに取材に応じた。「土呂久」の記憶を風化させたくないと考えたためだ。

悲惨な記憶を風化させてはならない

 今月2日、齋藤さんの自宅庭にはナスやキュウリなど多くの夏野菜が育っていた。木脇小校長を最後に定年退職してからは町教育委員会の教育相談員として週3日、子どもや保護者らと接しているが、休日が多くなった分、庭いじりする時間が持てるようになった。自身が告発した土呂久鉱害のことをより考える時間も生まれ、徐々に「悲惨な記憶を風化させてはならない」と考えるようになった。

 「自然豊かな山奥にある土呂久は本来、最も安全であるべき場所。先祖代々受け継いできた農地や、岩盤を削って苦労して手に入れた水、なにより自分たちの体がヒ素で汚され、住民の苦しみは想像以上だった」。農作業の合間、古い記憶をたどりながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

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 66(昭和41)年、新任地の岩戸小。周りの物すべてが新鮮に映っていた新任教師は、すぐに児童の異変に気付いた。顔色が悪く、体調不良を訴えては保健室に駆け込む土呂久の子どもたち。焦土のように草木一本ない鉱山跡、鉱物などで青白く濁った川は異様だった。当時は水俣病、イタイイタイ病の影響もあって公害学習が盛んな時代。齋藤さんは、PTAの親子学習のテーマとして土呂久地区を調べるようになった。

 鉱害の疑いは確信に変わり、教職員組合の研究テーマで取り上げるよう提案。元来熱血漢で通っていた齋藤さんは、被害の全容を把握するため地区の住民宅を訪ね歩き、肉声を録音したテープは200本にも上った。しかし、「嫁が来なくなる」「農作物が売れなくなる」「数年で転勤する人に何が分かる」などと辛辣(しんらつ)な陰口が耳に入り、住民宅前に止めていたバイクを倒される嫌がらせを受けることもあった。

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 調査では「ばたばたと村人が若死にした」「町や村に訴えても握りつぶされた」などと住民の口から壮絶な過去がとめどなく語られ、聞き取りは午前2時を回ることもあった。鉱山操業後、ヒ素によって亡くなったとみられる住民数は集計で100人以上に膨らんでいった。

 想像をはるかに上回る事態に追い詰められたような心境になったのか、齋藤さんは雪が降る凸凹道をバイクで自宅に帰る際、土呂久の深い谷を見下ろして涙ながらに祈った。「私がいなくなったら、土呂久のみんなもこのまま(鉱害で)死んでしまう。助けてください」

【写真】約40年ぶりに自身が告発した土呂久鉱害について口を開いた齋藤正健さん。「記憶を風化させたくない」と願う=2日午前、国富町木脇の自宅

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