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戦後70年 みやざき

軌跡・鉄路(上)

2015年8月10日
「金の卵」都市部へ

 今も昔も変わらず雄大な霧島連山を望む駅構内に、かつてのにぎわいはなくなった。「寂しい思いはある。でも駅はまちの顔。きれいに守っていきたい」。国鉄(現JR)での初任地だったえびの市・JR吉都線京町温泉駅で、今は名誉駅長を務める永友隆雄さん(77)=同市向江=がホームに植えたパンジーを丁寧に手入れしながら、戦後復興、高度成長の中であまたの人間模様を見守ってきた鉄路への強い思いを口にした。

復興、高度成長支える

 川南町境に近い都農町川北で生まれ、落下傘部隊が日々訓練に励む姿を見ながら幼少時代を過ごした。徴兵され、台湾に赴いた父は終戦後2年間、音信がなく家族は死を覚悟したが、ある日ひょっこり帰ってきた。そんな父が、自らの弟が朝鮮鉄道で働いた関係から「鉄道に入れ」と言ったことで永友さんの進路が決まった。鹿児島市の鹿児島鉄道高校(現・樟南高)に進学、1960(昭和35)年に国鉄入りし同駅に着任した。

 「輸送といえば鉄道の時代。貨物も多く、盆正月に子どもに仕送りする親も多かった」と永友さん。目にはホームを大勢の人が行き交い、7両ほどの編成で黒煙を上げる蒸気機関車の姿が浮かぶ。

 県統計年鑑によると、吉都線の1日平均乗客数は60年度7818人。2013年度(1399人)の約5・5倍で、沿線のホームでは車掌が「中に詰めて」と乗客を車両に押し込むこともままあった。同駅の駅員だけで8人ほどいた時代。永友さんは「種子島の宇宙センターに運ばれるロケットの一部を見たこともあった」と述懐する。

◇     ◇

 えびの市出身の妻と結婚し、隣町の鹿児島県湧水町の吉松駅の車掌区などにも勤務した永友さん。鉄路が最も輝いた時代で特に思い返すのが、昭和40年代まで続いたとされる集団就職だ。

 関西、関東など都市部で「金の卵」と重宝された中学卒業生。臨時の集団就職列車に乗り継ぐため、京町温泉駅で涙ながらに家族と別れる子どもたちの表情が記憶に残る。「中卒といえばまだまだ子ども。親も寂しいだろうなと思った」と永友さんはいう。

 真幸中卒業後、集団就職列車で大阪の金網工場に向かった藤崎雅夫さん(66)=同市内竪=は「5人きょうだいの長男で少しでも家を手助けしたいと思っていた。学生服にかばん一つ。新しい場所に行くうれしさもあったけど、やはり涙が出た」。当時、約300人いた同級生のうち、高校進学は100人余り。「残りは男も女も就職列車。きょうは誰、明日は誰々という感じだった。そういう時代があって今がある」と語る。

 当時はまちの中心が駅で、駅に人が集まり、周囲に商店街が形成されていった。永友さんの記憶では、そんな“大動脈”に陰りが見え始めたのが昭和40年代後半だ。

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 戦後70年。連綿とした時の流れをひもとくと、目まぐるしい時代変化にもまれ生きてきた人々の幾多のドラマがある。それぞれの軌跡をたどり、今抱く思いを聴いた。

【写真】かつて吉都線を走っていた蒸気機関車。今でこそ1、2両編成となったが、長い車両編成で多くの人、物を運んでいた=1972年(えびの市提供)

軌跡・鉄路(上)「金の卵」都市部へ2015年4月5日付
軌跡・鉄路(下)移動手段変わっても2015年4月6日付


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