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わだち 戦後70年

(1)家族 思いやる心、不変

2015年1月26日
 戦後70年を迎えた。戦後復興から高度経済成長、バブル経済の崩壊と時代の荒波がめまぐるしく押し寄せ、反動のように社会問題も噴出してきた。その間、家族の姿は変容し、個人商店は盛衰の憂き目に遭い、米農家は農政に翻弄(ほんろう)されながら、それぞれの歴史を刻んできた。そんな人たちの歩みを伝える。

激動の時代 受難耐える

 戦後は家族にとって受難の時代でもあった。物資や食料は底を突き、生きることさえ困難な貧しさがはびこった。血を分けた肉親との生き別れ、親の死、さまざまな不幸に見舞われながらも、新たな家族のかたちを紡ごうと激動の時代を駆け抜けてきた人たち。宮崎市大塚町の小原大八(72)、夏代(66)さん夫婦もその中にいた。

 夏代さんには双子の妹がいる。だが、その存在を知ったのは結婚後の30歳になってからだ。終戦から3年後、中国から復員した父と母の下に生まれた。「生きていくには一人養子に出すしかない」。そう言い出した母の実家に父母は反対できないほどその日の生活に困窮していた。生後間もなく養子に出された妹と生き別れた。

 母の知人からその事実を告げられた夏代さんは真意を確かめようとしたが、父は「帰れ」と怒鳴った。母は渋々、妹の写真を見せたきり無言になった。「何も聞くな」。顔にはそう書いてあった。

 「昭和の家族は反論を許さない威厳のある父、寡黙に支える母がいて、今の親子のように内面をさらけ出して悩みを打ち明けることはできなかった」。そんな空気感の中で精いっぱい生きてきた。

◇     ◇

 「どうしようもない貧しい時代だったから」。大八さんにとって戦後の混乱期は父の死と重なる。6歳の頃、腸の病気で息を引きとった。宮崎市の橘通りにあった製靴店はあるじを失い傾いた。

 きょうだい合わせて6人の一家を立て直したのが母だった。同市大橋1丁目に食料品店を開き、一人で切り盛り。忙しい母と食卓を囲んだ記憶はないが、「文字もろくに書けないのに、くじけず、根性で育ててくれた親心がその後の力になった」。

 土木技術者として高度成長期のまっただ中を走り抜け、1975(昭和50)年に夏代さんと結婚。休みなく働き、「年1回こどものくにに行って、宮崎山形屋でご飯を食べることが唯一の家族サービスだった」という。

 そんな二人にも親の介護問題が待っていた。認知症を患った大八さんの母を不眠で疲れ果てながらも夫婦で力を合わせて支えた。夏代さんの母も脳腫瘍で倒れ、看病に明け暮れた。母は「(妹は)幸せだったろうか」とつぶやき、95年に亡くなった。

 「妹を育てられなかった身を許せず、ずっと責め続けていたのだろう」。今は神奈川県内に暮らす妹と失った30年間を取り戻すように電話で連絡を取り合っている夏代さんは、時代が変わっても家族が思いやる心は変わらないと信じる。

 夫妻の長男は5年前に妻の一方的な理由で離婚。妻に引き取られた息子に会えず気がめいっている長男に一言伝えたい。「子供は親の背中を離れたところから見ている。家族が離れても必ず帰ってくる。血のつながりは切れない」(報道部・井口健二)

【写真】戦後の肉親の死、生き別れを経験し、家族が助け合うことの大切さを語る小原さん夫婦=宮崎市大塚町

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