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証言 ブーゲンビル島に出征【上】 田原正人さん(89)=美郷町

2014年8月6日
■毎日が空腹との闘い

 ブーゲンビル島(現パプアニューギニア)守備隊補充兵として1943(昭和18)年冬から、終戦まで陸軍第6師団に従軍しました。高鍋農学校を卒業後、陸軍獣医学校を志願しましたが、戦局悪化で「勉強したい」という願いはかなわず、18歳で戦地へ送られました。

 補充兵860人のうち、たった8人しか生きて帰っていません。制空権は連合軍に取られ、補給はなし。食糧や弾薬、医薬品など物資がなく餓死者やマラリアに感染する者など戦闘以外で息絶える兵ばかりで、地獄のよう。はじめのうちの大きな戦闘で大部分は死に、生き残った者は密林を逃げながら小規模な戦闘をするのみです。島は当時ボーゲンビルと呼ばれており、それをもじって「墓島」とも言っていました。

 生き残ったのは奇跡。はじめは一等兵で通信兵として従軍していましたが、獣医学の知識があったことから配置変えになり、獣医官として負傷した馬の治療担当になり最前線を退いたのが大きいです。

 死ぬのが怖いと思ったことは数えるほど。というのも、毎日が空腹との闘い。今日は何が食べられるかといった空想が、頭の中の大半を占める異様な精神状態でした。

 米は2日に1合だけ配給され、終戦前になると3日に1合だけでした。ネズミやトカゲ、木の皮を煮て作ったデンプンが主食の生活です。体長1メートルほどの大きなトカゲはごちそうで、皮をむき焼いて食べました。デンプンは木の皮をむいてすりおろし、ドラム缶で煮て下にたまった液を乾燥させ作ります。出征時60キロだった体重は復員時44キロにまで減りました。

×    ×

 来年8月の戦後70年へ向け、忘れてはならない悲惨な記憶を次世代に語り継ぐため、高齢化が進む戦争体験者の貴重な証言を残します。

 ブーゲンビル島 南太平洋の激戦地の一つ。1942(昭和17)年に日本軍が占領したのち、上陸した連合軍と43年11月から45年8月まで戦闘が続いた。その間日本軍は制海、制空権の大半を喪失し、第6師団(熊本)を含む歩兵部隊が孤立する中、持久戦を展開した。2万人超といわれる戦没者のうち、大半が補給路を断たれたことによる餓死や、マラリア感染で亡くなったとされる。

【写真】水筒やヘルメットなどブーゲンビル島の日本軍遺留品(県護国神社「遺品館」所蔵)

ブーゲンビル島に出征 田原正人さん(上)2014年7月26日付
ブーゲンビル島に出征 田原正人さん(下)2014年7月27日付
海軍兵学校最後の卒業生 継松敏夫さん(上)2014年8月2日付
海軍兵学校最後の卒業生 継松敏夫さん(下)2014年8月3日付
終戦当時小学3年生だった 平部元俊さん2014年8月22日付
沖縄から疎開してきた 伊波盛茂さん(上)2014年9月3日付
沖縄から疎開してきた 伊波盛茂さん(下)2014年9月5日付
少年航空兵を志願 下西一郎さん2014年9月8日付
米軍機の機銃掃射で父親を亡くした 平山直雄さん2014年9月18日付
綾町役場で働いていた 中武チエさん2014年10月6日付
特攻隊教官と交流 濱畑美都子さん(上)2014年10月28日付
特攻隊教官と交流 濱畑美都子さん(下)2014年10月29日付
ブーゲンビル島に派遣 関英夫さん2014年11月4日付
シベリア抑留体験者 長友基さん・長谷敏通さん2014年11月10日付
特殊潜行艇に搭乗 山口正輝さん(上)2014年11月18日付
特殊潜行艇に搭乗 山口正輝さん(下)2014年11月19日付
真珠湾攻撃に参加、特攻隊教官も務めた 井ノ久保武義さん2014年12月8日付
特殊漁船で米軍機の襲撃を受けた 吉川威さん2015年1月11日付
赤江で飛行場修繕に当たった 新坂睦幸さん2015年1月13日付
看護婦として復員兵帰還に従事 玉田千津子さん2015年2月16日付
終戦まで海軍で艦船勤務 小八重一夫さん2015年3月15日付

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