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忘れない 戦後70年へ

戦争遺産 【1】給水塔(川南)

2014年8月11日
■“軍都”の面影残す/落下傘部隊が常時訓練

 「あの塔はここに落下傘部隊がいた記念のようなもの」。川南町川南の梶原愛子さん(82)は、旧日本軍が太平洋戦争中に建てた給水塔を少女時代から眺めてきた。「当時この辺は兵隊だらけ。新しい兵舎が何棟も並び皆エリートな感じだった」。記憶には今と全く違う大地の姿が残る。高さ28メートルと周辺からも目立つ給水塔は、国立病院機構宮崎病院敷地内に現存し、軍都・川南を今に伝える数少ない戦争遺跡だ。

 梶原さんは戦争が始まった1941(昭和16)年、関西から川南村(当時)の祖父宅に疎開。南方戦線での奇襲作戦に向け前年から訓練を始めた陸軍の落下傘部隊が、満州から新田原飛行場(新富町)に移り、軍馬を育成する「軍馬補充部」の牧場があった川南の唐瀬原台地に降下場が整備された年だった。

 川南町観光協会がまとめた「空挺(くうてい)落下傘部隊」によると、延べ30万人以上を動員し現在の東小付近に1500メートルの滑走路や司令部、戦車隊、通信隊、陸軍病院などが整備され、唐瀬原一帯に四つの連隊が駐屯。「まさに人海戦術で川南は一瞬の間に軍都と化した」とある。当時の姿のまま唯一残る給水塔は第3連隊が使っていたものだ。

 祖父宅が飛行場用地に入り移転も経験した梶原さんは「訓練は毎日のようにあり、真っ白な落下傘が次々空に咲いてとてもきれいだった」。民家に分宿する隊員もいるなど日常の中に部隊の存在があり「母は、貧乏のどん底でも兵隊さんが家に来ると一生懸命ごちそうしていた」と語る。

◇     ◇

 身体屈強な兵が選ばれ、精鋭部隊といわれた落下傘部隊。42(同17)年2月にスマトラのパレンバンに約300人が降下して石油資源を獲得する作戦を展開、「空の神兵」とたたえられた。「全国各地から来たえりすぐりの兵隊さんだった。憧れの存在だった」と語るのは高尾日出夫さん(87)=川南町川南。部隊の活躍に「町も浮き立つ雰囲気だった」といい、友人とは「俺も兵隊に行こう」と語り合った。

 だが、その後戦局は悪化しレイテ島、ルソン島、沖縄などで多くの隊員が散った。川南町史によると、唐瀬原で訓練した1万2千人のうち1万人が亡くなったとされ、「川南で嫁さんをもらって戦死した隊員もいる。悲劇だったと思う」と高尾さん。

 戦後、川南護国神社には1万余の英霊が合祀(ごうし)され、境内には「空挺落下傘部隊発祥之地」と刻まれた石碑が建立された。軍用地は入植者らに開放され、日本三大開拓地といわれる大地に軍都の面影はない。碑を前にして高尾さんは強い思いを口にした。「国、家族を守るため、川南で危険な訓練に励み戦争に参加した人たちがいた。そういう時代があったことを伝えていきたい」

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 15日で終戦から69年を迎える。今ある平和を見詰め直すため、県内に残る遺産を巡り、軍事色を強めた地域の姿や悲惨な空襲など忘れてはならない戦争の記憶をたどる。

【写真】国立病院機構宮崎病院の敷地内に残る給水塔。終戦までの数年間、軍都と化した川南の数少ない戦争遺跡だ

【1】給水塔(川南)2014年8月8日付
【2】赤江飛行場(宮崎市)2014年8月9日付
【3】23連隊本部(都城市)2014年8月12日付
【4】回天基地(日南市)2014年8月13日付
【5】蚊口地区(高鍋町)2014年8月14日付
【6】本土防衛の最前線(串間市)2014年8月15日付
【7】富高海軍飛行場(日向市)2014年8月16日付
【8】平和の塔(宮崎市)2014年8月17日付

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