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ブラジル宮崎県人移住100周年

戦後70年へ 最後の証人 県人が語るブラジル勝ち負け抗争 【上】事件

2014年10月2日
日系分断、暗殺へ発展
 日本から渡った約19万人の移民が暮らしていたブラジルで、第2次大戦敗戦直後、あくまでも日本の戦勝を信じる「勝ち組」、敗戦を認識する「負け組」に日系社会が分断し、暗殺事件にまで発展した「勝ち負け抗争」があった。当事者で唯一の生き残りとされるのが、延岡市出身の日高徳一さん(88)=マリリア市。二つの事件の実行犯として服役。その後も「狂信者」と後ろ指を指され、長く口を閉ざしていたその人が戦後70年を前に、移民史の暗部に潜む真相を語った。(報道部・井口健二)

 サンパウロ市から北西約450キロのマリリア市で、日高さんは自転車店を営んでいた。「一瞬にして平和な家庭を奪い、不幸に陥れた。申し訳なかった。当時は日本人として真剣に考え、使命感を持って行動した」。仏壇に手を合わせ、祈るように事件の日を思い出していた。

 1946(昭和21)年6月、20歳だった日高さんは近郊の勝ち組同志3人とサンパウロ市へ。向かった先は日系社会のリーダー的存在だった元日本陸軍大佐宅。「おかけなさい」。そう告げた元大佐の前で4人とも直立し、同志の一人が短刀と自決勧告書を手渡した。2回読み返した元大佐は「年だから(自決する)気力がない」と答えた。

 その数秒後、同志が「それでは御免」と銃声を鳴らしたと同時に日高さんも発砲。もだえる元大佐に、「苦しませてはいけない」ともう一発撃った。これが致命傷になったと後に警察から聞かされた。
  
 ◆    ◇

 元大佐を狙った大きな理由は、移住者が置かれた異常な時代にあった。終戦から極端な情報不足に襲われ、戦況を唯一伝えていた日本からのラジオ放送は大本営発表から一転、敗戦一色に。日高さんが「連合国軍の謀略と思った。大半が戦勝を信じていた」と言うように、当初は勝ち組が多かったという。

 「ブラジル日系社会百年の水流」(外山脩著)などによると、45年10月、日本外務省がスイスを通して英文で打電した終戦の詔勅がブラジル日系社会へ届く。これを基に「終戦事情伝達趣意書」に元大佐、元アルゼンチン公使、農協に当たるコチア産業組合前理事長ら日系社会の指導的立場だった7人が署名、地方に配って説明した。説明会では「英語で書いた詔勅があるか」と反発があったという。

 日高さんによると、趣意書をきっかけに少数派だった負け組が勢いを得た。加えて挑発的な態度を取り「皇室をばかにする発言だけでなく、日の丸を汚し、国の尊厳をおとしめる行為が横行した」(日高さん)。故郷から遠く離れているからこそ、強く国を思い、移住生活に耐えていた日高さんらにとって、国への侮辱が許せなかったという。
混乱の原因となった趣意書の署名者に「責任を取ってもらう」と標的に決めた。

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ズーム
 勝ち負け抗争 1945(昭和20)年8月、第2次大戦終戦直後のブラジル日系人社会で、日本の戦勝を信じる「勝ち組」、敗戦を受け入れる「負け組」が互いに襲撃と報復を繰り返した事件。47年1月まで続き、少なくとも死者10人以上、負傷者数十人に上るとされる。

写真説明/銃殺した元大佐の冥福を祈り続けている日高さん。「抵抗はあるが、事件のことを語らなければならない」とつぶやいた=マリリア市

【上】事件2014年9月23日付
【中】情報過疎2014年9月24日付
【下】迫害2014年9月25日付

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