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ひむかの島人は今 奄美本土復帰60年

【上】米軍政府統治下

2013年12月24日
豊かな生活求め密航 同郷頼りに本県へ
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 戦後、米軍政府統治下に置かれた鹿児島県の奄美群島。1953(昭和28)年12月25日の本土復帰から今年60年を迎える。各地で節目を祝う式典が開かれ祝賀ムードに包まれる一方、地理的なハンディから産業育成の難しさや人口流出など依然として課題も多い。本県には、戦前から戦後にかけて多くの奄美出身者が移住してきた。県内在住の島人は、今どのような思いで故郷を見詰めているだろうか。

 米軍政府統治下の時代(46〜53年)、本土から切り離された奄美群島の住民の生活は困窮を極めた。配給制が敷かれたが、物資は常時不足。特に食糧事情は厳しく、49年の「配給食糧の3倍値上げ」政策を受け、島民の半数近くが食糧を買えなくなった。ソテツをつぶしてかゆにしたり、雨の後、畑に生えた草類を食べたりして飢えをしのいだ。

 確たる産業もなく、大学への進学もままならない-。そんな状態に不満と不安が渦巻くのは必然だった。分断下、島を出る唯一の方法は「密航」。奄美の人は新天地での豊かな生活を求め、軍の監視をくぐり抜け次々と本土を目指した。

 宮崎市波島2丁目の備瀬カネさん(82)もその一人だった。徳之島出身の備瀬さんは50年9月、住んでいた奄美大島の名瀬から単独出航し、口之島、屋久島を経て鹿児島市へと至った。19歳のころだ。

 「島では将来が描けなかった。本土ならばどうにかなるとの一心だった」と備瀬さん。密航に使われたのは、ポンポン船と呼ばれる焼き玉エンジンで動く小さな漁船で、「荒波を越えるには心細い代物だった」という。

 国境を分けたのは北緯30度線。米軍支配下だった口之島を出て、屋久島にたどり着くまでが密航だった。口之島は密貿易の拠点となっており、備瀬さんもB円と呼ばれた軍票を両替して準備した。闇夜に乗じて出港した船は、波が高くなると水をかぶり、船体は揺れに揺れた。「警察に捕まったら一巻の終わり。見つかりませんように」。祈るような気持ちで丸一日を過ごした。屋久島に着いたのは周りが何も見えない夜の時間帯。船は港の裏側に当たる山際に着けられ、数メートルの断崖を上り、ようやく「日本国内」へと入ることができた。

 屋久島から鹿児島への連絡船でも「シマグチ(奄美の集落ごとの方言)で話したらばれる。知人がいたが、船内では知らないふりをして過ごした」と緊張は続いた。無事に鹿児島へと上陸したとき、「ようやく内地に来た」と心から安堵(あんど)したという。

 当初は親戚が多くいた兵庫県を目指していた備瀬さん。道中で持ち金を使い果たし、途方に暮れていたところ、いとこを含む奄美出身者が宮崎市に多くいるとの情報を聞いた。どうにか電車代を同郷の人から借り受け、たどり着いたのが同市東大島(現在の波島)地区だった。

【写真】「ポンポン船」と呼ばれた漁船。奄美からの密航経験者の多くが、同様の船に乗り海を渡った(奄美群島広域事務組合提供)


【上】米軍政府統治下2013年12月23日付
【中】新天地・波島地区2013年12月24日付
【下】宮崎人として2013年12月25日付

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