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特攻隊のいたまち

【1】内海(宮崎市)

2013年8月10日
■「回天」狙い空襲激化

 敗戦の色濃い太平洋戦争末期、県内からも赤江(宮崎市)、都城西、都城東(以上都城市)、新田原(新富町)の4飛行場から多くの旧陸海軍特別攻撃隊の航空機が飛び立ち、500人近くの若い命が散った。沿岸部では人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」などの特攻基地が多く建設された。まちに基地があったばかりに空襲の犠牲になった人たちもいる。あの時代、まちの人々は特攻隊とどう向き合っていたのか。特攻隊のいたまちの記憶をたどり、平和を考える。

 宮崎市内海に旧日本海軍の特攻隊が着任したのは、終戦直前の1945(昭和20)年7月。戦況悪化の中、じきに配備される人間魚雷「回天」で、迫る米軍の本土上陸作戦に対抗するためだった。軍事用輸送船の造船所があり、軍隊と住民が共存していた。

 「白い軍服でマフラーをまとい、女の子たちの憧れの的だった。みんなが毛糸でこしらえた人形を隊員は腰から何個もぶら下げていた」。小学6年だった近くの黒木ツヤ子さん(80)は、特別だった特攻隊員の様子を思い出す。

 隊員から女学生だった姉やいとこへラブレターを託されたのは森田義孝さん(78)=同市神宮西1丁目。「恋の行方は分からないけど、はちまきを長髪の頭に巻いて海を眺める姿が凜(りん)として心に残っている」と語った。

 特攻隊員のほか、森田さんは海軍の兵隊とも交流し、近くの山でメジロ捕りをしたことも覚えている。「おおらかな人たちばかりで、『大きくなったら軍人になれよ』と言ってかわいがってくれた」と振り返る。しかし、森田さんはその後から終戦までの記憶をほぼ失っている。「空襲の恐怖と極限状態のストレスにさいなまれた」という。7月16日に回天6基が内海に配備。それが標的になり、翌日から空襲が激化した。

 「誰か助けて」。自宅前で米軍機による機銃を受けた当時9歳の大澤ヒロ子さん(77)は叫んでいた。銃弾が肩から右腕にかけて貫通していたが、山へ逃げようとする兵隊は誰も振り返らなかった。

 地鳴りのような空襲が続く中、逃げ場所を求めてさまよい歩き、神社にたどり着いた。駆けつけた医者は大澤さんに「向こう向いとけ」と叫び右腕を切断した。不思議と痛みは感じなかった記憶がある。負傷して横たわっていた近所の男性は「みずー」とうなっていた。誰かが水を少し飲ませると息を引き取った。

 いまだ銃弾のかけらは大澤さんの体に残り、失った右腕を思えば空襲の惨劇を忘れることはできない。「召集令状が来ても腕を返してもらわんと子供は戦争には行かせない」が口癖になったという。

 空襲による犠牲者は約30人に上り多くの住民も巻き込まれた。終戦を迎え、出撃することがなかった特攻隊員や兵士たちは姿を消した。しかし、回天が格納された壕(ごう)は残り、空襲で防空壕にいた兵士たちが生き埋めになったまま、今でも遺骨が眠っているという証言もある。

 「なぜ小さな港町が激戦地のように空襲を受けたのか」「戦争を語り継ぐ学習の場として保存したい」。当時を知る人たちは特攻隊がいた歴史を守り継ごうとしている。

【写真】終戦間際に米軍の機銃掃射を受けた大澤ヒロ子さん。今でも右肩には銃撃痕が残る=宮崎市・内海港

【1】内海(宮崎市)2013年8月10日付
【2】細島・梶木(日向市)2013年8月11日付
【3】赤江(宮崎市)2013年8月13日付
【4】油津(日南市)2013年8月14日付
【5】都原、都北(都城市)2013年8月15日付

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