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中曽根元首相死去

2019年11月30日
◆「歴史法廷」覚悟した政治家◆

 中曽根康弘元首相が、101年の生涯を閉じた。「戦後政治の総決算」を掲げ、首相在職1806日は戦後5位。国鉄(現JR各社)、日本電信電話公社(現NTT各社)、日本専売公社(現日本たばこ産業)の民営化を実現し、当時のレーガン米大統領との「ロン・ヤス関係」で、強固な日米同盟を構築。政界では群を抜く存在感だった。

 内務省、海軍を経て1947年に政界入り。自主憲法制定を訴え、「青年将校」とも呼ばれた。少数派閥ながらも、「三角大福中」(三木、田中、大平、福田、中曽根各派)の壮絶な権力闘争の中を巧みに生き抜き、82年に首相に就任する。

 真骨頂は「大統領的な首相」を目指したトップダウン型の政権運営だ。民間人を集めた諮問機関で政策の方向性を定めていく手法は、国会や党を軽視する「ブレーン政治」と批判されたが、中曽根氏は国民世論へのアピールを狙った。こうしたスタイルが国鉄の分割・民営化などを推進する。首相官邸主導の政治の出発点といえるだろう。

 外交では首相就任1カ月余りで韓国を電撃公式訪問。その直後に訪米し、レーガン大統領と個人的信頼関係を築く。先進国首脳会議(サミット)でも積極的に発言、首脳外交の重要性をアピールする先駆けだった。

 ロッキード、リクルート両事件で追及の矢面に立ちながら、証人喚問に応じ切り抜ける。自主憲法制定や、初訪米時の「不沈空母」発言など、タカ派体質の危うさはあったが、自身の主張や立場を変え封印することもためらわなかった。裏返せば、自民党内に抑制力が働く余地があった。その”政界遊泳術”は保身目的の「風見鶏」とやゆされたが、現実的路線を選択する柔軟性を併せ持っていた。

 靖国神社の公式参拝にこだわり、85年8月15日に実現。中国、韓国の猛反発を招き、この参拝をきっかけに現在に至るまで靖国問題を引きずるが、翌年から自粛することで沈静化させた。2015年には月刊誌への寄稿で「歴史の解釈、歴史の流れというものは、やはり国際的に通用する判断で考えなければならない」と表明している。

 イラン・イラク戦争末期に自衛隊の掃海艇を派遣しようとしたのに対し、後藤田正晴官房長官の反対に遭って断念。間接税(売上税)の導入にも意欲を示したが、野党の激しい抵抗で廃案を受け入れた。

 信念で政策推進のために世論を喚起するだけでなく、時には世論に向き合い軌道修正を図る姿勢に、学ぶべき点は少なくない。「政治家は常に歴史法廷に立つ被告人だ」と口にしていた中曽根氏。いまを生きる政治家にとって重い言葉である。

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