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傍聴席のついたて

2020年1月10日
 半世紀も前だが顔もしぐさも覚えている。小学校の学級に知的障害の男の子がいて、時々は特殊学級に行くが一緒に授業を受けていた。いろいろ粗相をしでかしても、学級を明るい雰囲気にする存在だった。

 ごく自然な関係が続いたが、やがて彼が特殊学級に”隔離”されてめったに会わなくなった。むろん今は特殊教育の必要性は理解している。ただ当時はその子が遠い世界の人になった気がした。大人になるにつれて、知らぬ間に健常者と障害者の垣根を築いていた。

 相模原市の知的障害者施設で45人が殺傷された事件の初公判に接し、被告がいつ「重度障害者は社会からいなくなればいい」という考えを持ったか考えた。断罪も、特異な事件と片付けるのも簡単だが、被告に抗弁できる理由を自ら考えねば内なる垣根は残ったままになる。

 昨年「こんな夜更けにバナナかよ」という映画が県内で上映された。実話の映画化。自宅で思いのまま生きる筋ジストロフィー患者がボランティアたちへ求める注文は、最初は度が過ぎるように見えたが、バリアフリーといいながら健常者同様のわがままを許さない社会への強烈な毒を含んでいた。

 障害者と健常者を隔てるバリア。公判を前に犠牲になった女性の名前を公表した母親の言葉が胸に刺さる。「裁判で娘が記号で呼ばれるのは納得がいかない」。バリアは道路の段差でも傍聴席に設けたついたてでもなく、人々の心に巣くう差別かもしれない。

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