くろしお

2007年08月の記事一覧


2007年08月31日

 長女はユダヤ教、二女はキリスト教、三女はイスラム教でいさかいが絶えない。仏教や神道など多神教を信じる人が多い日本人にしたら、テロや人質事件はそう見えてくる。

 この3宗教を信仰する人が世界中で最も多い。実はこの3姉妹、「旧約聖書」という同じ聖典を心のよりどころにしている。この2千年の間に二女と三女が巨大化し、世界中で血の抗争を繰り返してきた。タリバンによる韓国人拉致・殺人事件もその一端だろう。

 タリバンはアフガニスタン旧政権を担っていたから、交渉術にたけている。今回、韓国は米国寄りのアフガン政府を飛び越し、イスラム国家を仲介して交渉に当たった。残る人質を解放する代わりに、駐留軍を撤退することで合意した。

 この交渉過程を見る限り、アフガンが現在も内戦の続く無政府状態に近い現況にあることが分かる。大統領選を控えた韓国政府は解決に全力を注いだ。日本と違って韓国内で被害者などへの“自己責任論”は過熱せず、解決を後押ししたことも福音の一つだろう。

 人質となったのはキリスト教信者の人たちだった。イスラム教徒にとってキリスト教徒は民主主義を押しつけ、偶像を信仰する野蛮な人に映る。一方、キリスト教徒には、イスラム教徒は自爆もいとわない狂信的な原理主義者と見える。

 タリバンが巨大石仏を破壊したのはイスラムの教えに沿うことだった。拉致や破壊からすべてのイスラム教徒が異常、と断言するのは短絡に過ぎる。宗教が違えば価値観は全く違う。相手の信仰を理解しないと姉妹は永遠に和解できない。

2007年08月30日

 大関に昇進したときが「大関の名に恥じないよう一生懸命」、そして最高位を射止めたときが「相撲道発展のためにけいこに精進」だった。喜びと決意のこもった口上だった。

 初のモンゴル出身横綱として、気迫にあふれ、日本の伝統文化の屋台骨を背負う責任感も、その言葉から伝わってきた。なのに…。まさかあのとき自分自身に誓い、ファンに約束した言葉を忘れたわけではあるまい。今、あのときの真しん摯しな姿はどこを見てもない。

 横綱昇進(2003年1月)を決めた記者会見ではしっかりした日本語で答えている。「責任が重くなるが、力と心、技を磨き、一生懸命努力する」。あれからまだ4年。あの強くて熱い気持ちはいつ、どこに置き忘れてきたのだろう。

 親方も青年横綱にエールを送っている。「モンゴルの草原のごとく、豊かで広い心を持って頑張ってほしい」。自らにも言う。「横綱の弟子を持った師匠として何をしていくべきか、考えていきたい」。そんな親方としての言葉、思いも今では胸に響いてこない。

 迷走を重ねていた朝青龍問題がようやく決着、朝青龍は早々とモンゴルに帰国した。だが、これで一件落着とはとても言えない。とりわけ裏切り行為をしていたのに、最後までだんまりを通した朝青龍。横綱の誇りはどこに行ったのか。

 心の病とはいえ、口を開いてほしかった。指導力を欠いた親方もふがいない。こうなったらどちらもまず横綱昇進のときの初心に帰るしかないのではないか。あのときの口上や言葉を思い起こしてほしい。最悪のシナリオを防ぐためにも。

2007年08月29日

 姿の見えないものを表す隠(on)にiが加わり、オニとする語源説が強い。それまで鬼は「モノ」と呼ばれていた。魔物や怨霊おんりょうのたぐいの“もののけ”に近いものらしい。

 鬼が妖怪として定着したのは今昔物語集だろう。千以上の説話が収められ、多くの鬼が出てくる。門や橋など現世と来世を意味するような不気味な境界に出没した。末法思想の広がった平安時代は盗賊や人殺しがはびこった。それが鬼の仕業とする説話を生んだ。

 人を食らう鬼として「背丈は九尺(約270センチ)、全身は緑青色、目は1つで琥珀こはく色。手の指3本」(巻27第13話)と具体的に描かれる。国内に1億台の携帯電話が普及する今なら、鬼は架空の存在と一笑に付されるだけだろう。

 女性を拉致し死体遺棄容疑で逮捕された愛知県の3容疑者を、鬼と呼ばずして何と呼べばいいのだろう。女性から「殺さないでください」と命ごいされたにもかかわらず、頭をめった打ちにした。犯行翌日も3容疑者は見ず知らずの女性を襲う計画を立てていた。

 容疑者たちは携帯電話の裏サイトで知り合い、互いの素性を知らなかった。今昔物語集のように異形ではなく、いまの鬼は普通の姿であったことに不安を覚えた人も多いだろう。文明の利器は金銭欲と残虐性を簡単につないでしまった。

 匿名発信が自由になったネット社会は人間の欲望をむき出しにする。ゲーム漬けが攻撃性を募らせ、共感する心を失わせる―と指摘する専門家もいる。今回の事件はそんな凶兆と受け取れる。姿の見えない闇から現代の鬼が生まれている。

2007年08月28日

 「あいつ、マジKYだよ」。こう話しかけられて、すぐ理解できる人が一体何人いるだろう。「マジ」まで一緒にして「MKY」と言うこともある。こうなるともうお手上げだ。

 今年初めからはやりだした典型的な若者言葉。頭文字をとって「K」は「空気」で「Y」は「読めない」。つまり「KY」とは「空気が読めない」ということなのだ。これでいくと冒頭の一言は「その場の空気、雰囲気が分からない本当に駄目な人」ということになる。

 若者の世界ならずとも、今の時代どの分野でも、最も敬遠されるのが「KY」。とりわけ生き馬の目を抜く政治や経済の世界では時代の空気が読めないと、競争からはじき飛ばされてしまう。その典型が先の参院選での自民党の惨敗だ。

 「KY」の結果、安倍首相は窮地に追い込まれた。「国民の側でなく、永田町の政治家の側に立っているイメージを持たれた」。敗因について党の参院選総括委員会からも手厳しく批判された。ここで指摘されたのも国民の意識との乖離かいり。つまり「KY」ということだ。

 一歩踏み外すと奈落の底。がけっぷちに立つ首相が生き残りをかけて改造内閣を発足させた。これまで危機管理能力に欠けたお友達内閣、論功行賞人事など散々に酷評されてきた。そんな中、果たしてそれは起死回生の一手となったのか。

 顔ぶれを見ると重厚な布陣。一方で安倍カラーの後退も否めない。評価はいろいろだが、要はこれからどれだけ国民に顔を向け、声に耳を立てていくかだ。相変わらず「KY」では首相に起死回生はない。そのことだけははっきりしている。

2007年08月27日

 昔、炭坑に下りていくとき、作業員たちは必ず「カナリア」を同伴していた。有毒ガスが噴出したとき、真っ先に異変をかぎつけて鳴きだし、危険を知らせてくれたからだ。

 作業員はこれを避難の目安とした。ここからいち早く危険を告げる意味の言葉として「炭坑のカナリア」が生まれる。今、周囲を見渡すと自然界をはじめ、さまざまなところにいろんな顔を持った「炭坑のカナリア」が現れ、警告のアラームを鳴らし続けている。

 つい最近も、自然界で2つの「炭坑のカナリア」が危険信号を送ってきた。1つが北極の海氷面積の減少。この夏、1978(昭和53)年の観測開始以来、最小になった。地球のてっぺんで氷が解け、海面が広がっているというのだ。

 不気味なのは、これは国連の組織がこの春に予測した約30―40年後の北極の姿に近いことだ。原因は地球温暖化だけではない。が、問題はこのままだと、地球を冷やす重要な役割を担う北極の機能が衰退し、それが温暖化を加速させていく要因になることだ。

 もう1つの「炭坑のカナリア」はさんご礁の急減。米国の大学の調査で太平洋などで、年間3千平方キロを超えてサンゴが消失していることが分かった。沖縄県・石垣島ではこの夏、サンゴの死につながる白化現象の拡大も報告されている。

 海水温の上昇が原因という。この夏は政治の世界でも参院選で民意という「炭坑のカナリア」が警鐘を鳴らした。きょう、それを受けた内閣改造と自民党役員人事。炭坑作業ではカナリアの声の無視は死につながった。はたして安倍首相は…。

2007年08月26日

 ジリジリ太陽が照りつける水田。赤銅色に日焼けしたこの田の持ち主は「米は何度作っても難しい…」とつぶやいていた。「ベテランでしょう」と話を継ぐと、一喝された。

 70代後半とおぼしき男性は「一生のうち50―60回ほどしか作れん。君は50―60本記事を書いたらベテランになるのか」と言った。その迫力に気おされ、あぜ道を後ずさりした。稲穂を見るたび、病害虫の取材で農家を訪れた20年前の会話を思い出す。

 田起こし、苗づくり、田植え、水の管理、除草、施肥、機械管理、稲刈りの時期、人足の調整、乾燥の時間―どれ一つ間違っても失敗してしまう。同じ形の雲がないように、毎年気候が違う。だから米といわず、農業すべからく難しい。

 あのころ、米の1反(約10アール)当たりの粗収入は15万円といわれた。いま、尋ねると「12万円あるだろうか」と言う。野球場は100メートル四方だから約1ヘクタールとなる。これと同じ広さの水田に米を作って、わずか120万円。もろもろの費用を差し引けば赤字となる。

 それでも続けられたのは、稲作を多くの兼業農家の厚意に頼ってきたからだ。今夏の県内の早期水稲は台風により等級外の白濁米が大発生した。農業共済で特例救済を求める声に、国の調査団は「公平性が求められている」とつれない。

 白濁米は見た目が違うだけで味に問題ない。ならばJAや県はこの米について消費者へ理解を求め、ぜひ購買を勧めてほしい。農家の仕事ぶりを知っている人は、必ず買う。収穫後の米は燦々(さんさん)とした太陽の香りがする。ましてや人心をや。

2007年08月25日

 酒席で論議を吹きかけると「そげなむっかし(難しい)話はよかが」と笑顔ばかり。楽しい酒にしたかったのだろう。“天下とっても二合半”とばかりにさっと引き揚げた。

 本県知事を6期24年務めた松形祐堯さんの訃報ふほうに接し、酒に飲まれぬダンディズムぶりを思い出す。ただ、盃さかずきを置き古武士然とした顔になるときがあった。それは決まって“三つの戦”に話が及んだときだった。県民に見せる「松形スマイル」は消えていた。

 1つは130年前の西南戦争。松形さんの曾祖父は飯野村(現えびの市)副戸長として政府側の立場を貫き、薩軍に処刑された。通常言う「薩軍」ではなく「西郷さんの反乱軍」と語っていたことに、松形さんの悔しさを見た気がする。

 2つ目は自らの太平洋戦争。いの一番に召集される世代だが、兵役検査は体力不足で丙種だった。令状が来て「国のために命をささげる」と出征したものの結核で入営を断られる。忸怩じくじたる思いがあったのか体験を語るときは苦虫をかみつぶしたような顔をした。

 3番目は第三セクター・シーガイアの破たん処理にほかならない。存続のため基金を創設。議案を通すため県議会は徹夜となり、3度頭を下げた。引受先を探して東奔西走した。6期目は老体に自らむち打っているようで痛々しかった。

 最近もオーシャンドーム閉鎖の知らせに心を痛めていた。「よかが」という言葉は否定でなく、「良かが」と肯定するときにも使われる。リゾート計画が本人の「良かが」という寛容さゆえに膨らんだとしたら最も重い戦後だっただろう。

2007年08月24日

 「信じられない。何が起こったのか、全く分かりません」。勝利の後の監督の言葉のように、見ている者、みんなが信じられなかった。おそらく選手たちも同じだったろう。

 印象に残るシーンがある。優勝を決めた瞬間、マウンド上の投手が戸惑ったような表情を浮かべ、控えめなガッツポーズ。全国4081校の頂点に立った実感がわかなかったのだろう。「甲子園で1つは校歌を歌いたい」。その無欲が奇跡的な優勝に結びついた。

 漫画家やくみつるさんが本紙にこんな談話を寄せている。「野球漫画の上をいく劇的な展開で、愉快だ」。まさしく野球はドラマを地でいく佐賀北高校の優勝。大会前下馬評にも上らなかった、それも地方の県立高校の快挙に喝采(かっさい)を送る。

 大きな社会問題になった特待生制度、野球留学とも無縁。試験前の1週間は練習も休む。甲子園には大学受験問題集を持ち込み、試合のない日は宿舎で勉強会。レギュラーの5人は身長160センチ台。どこにでもいるごく普通の高校生。「野球エリート」ではない。

 あきらめない。信じ合う。力はチームのために。佐賀北の優勝は忘れかけていた高校野球の原点を思い出させてくれた。そして「天才とは99%の汗と1%のひらめきだ」と発明王・エジソンが言ったように、努力の積み重ねの大切さを。

 全国制覇は佐賀県勢として2度目。まだ1度もない本県にとっては何ともうらやましいが、佐賀北は本県球児にも勇気を与えてくれた。個々の力は弱くても、それが1つになると強固な力になる。来年夏。今度は本県球児が挑戦する番だ。

2007年08月23日

 69連勝という不滅の記録を残した横綱双葉山が、連勝が途絶えた日の夜、友人にあてた電報がある。今も語り継がれる。それは「イマダ モッケイタリエズ フタバ」。

 ここで「モッケイ」とは中国の古典「荘子」の寓話ぐうわに出てくる「木鶏もっけい」のこと。昔闘鶏飼いの名人が王に頼まれて1羽の闘鶏を育てていた。王は10日目ごとにしつこく聞いてくる。「もう使えるか」。これに名人はそのつど理由をつけて答える。「まだ駄目です」。

 理由は「空威張りの最中」「敵の声や姿に興奮する」などなど。それが続いた後、名人はようやく闘鶏の域に達したことを告げる。「もうよろしい。いかなる敵にも無心。まるで木で作った鶏のようです。徳が充実、まさに天下無敵です」。

 寓話は勝負の世界での無心の大切さを説く。双葉山はこの話を聞いて、ひそかに自らに誓う。「木鶏の境地に少しでも近づきたい」。だが、70連勝を目前に敗れた。友人にあてた電文はそのときの偽りのない心情の告白だった(「人間の記録・双葉山定次」)。

 2場所出場停止などの処分から3週間以上もたつのに、朝青龍問題は停滞したまま。きのう夜、医師から「解離性障害」と診断された後も自宅にこもったままだった横綱が初めて治療のため自宅を出たというが、まだ出口は見えてこない。

 モンゴル帰国か、日本で治療か。このまま迷走を重ねると進退問題にも発展しかねない。それにしても、と思う。少しでもいい。朝青龍に「イマダモッケイタリエズ」に学ぶ心があったら、こんなことにはならなかっただろう。残念でならない。

2007年08月22日

 残暑が厳しいがこの役所も暑くなる気配が漂う。経営者側と労働者側の委員が最低賃金について意見を交わす宮崎労働局の最低賃金審議会。月内に決まる予定となっている。

 厚労相の諮問機関は最低賃金改定の目安として、本県は6―7円上げるよう答申した。昨年の3円から倍増している。経営者側は「地方に好景気は及んでいない。経営を圧迫する」、労働者側は「生活実態を反映していない」と双方の不満は熱気をはらんでいる。

 現行の時給611円で1日8時間22日間働いたとすると、月収は10万7千円余。宮崎市の単身世帯の生活保護支給額(20―40歳)の10万5千円をかろうじて上回っており、世にいうワーキングプア(働く貧困層)にほぼ近い。

 一方、東京は現行の719円から19円引き上げるよう答申されたから、都市部と地方の格差はますます広がることになる。最低賃金の対象者は労働者の3分の1を占めるパート、アルバイトなどの非正規雇用者が占めており、低い賃金水準で暮らす人は多い。

 英国は1200円台、フランスは1300円台。国民総生産は日本がはるかにしのぐのに、なぜこうも違うのか。日本の中小企業は大企業の下請けになっているからだとか、正規社員を各種手当で厚遇しているから、などと議論は百出する。

 構造的な要因が複雑にからみあっており、簡単に解けそうな問題ではない。政府は例年以上の最低賃金引き上げを働きかけ、民主党は今後3年で時給を千円に引き上げると公約した。この攻防は、いくら暑くなっても見逃してはならない。

2007年08月21日

 「中華航空」と聞いて、すぐ思い出すのが13年前の事故だ。1994年4月26日名古屋空港で着陸に失敗した中華航空エアバス機が炎上し、264人が死亡した。

 そのときの本紙を開くと、「ハイテク機一瞬の火の海」「夜の空港つんざく爆発音」「生きていて…懸命の救助」の見出しが事故のものすごさを伝える。地上に並べられた乗客の遺体の写真が生々しい。ボイスレコーダーには「終わりだ」と叫ぶ機長の声も残っていた。

 事故調査委員会は、この事故を不適切な操縦をした乗員側と、失速防止目的の装置が逆に作動した機体の双方に原因があると断定した。中華航空はその後も、5年前に台湾海峡で225人が死亡した墜落事故を起こすなどしている。

 台湾の国花・梅の花びらを描いた尾翼が印象的な中華航空は、実は本県ともなじみが深い。宮崎空港と結ぶチャーター便を運航、昨年度は過去最高の190便で乗客2万6999人を運んだ。今年も4月から7月まで74便が宮崎空港を離発着している。

 その中華航空機が那覇空港で着陸後に爆発、炎上。乗客と乗務員は間一髪脱出して無事だったが、炎上の様子をテレビの画面で見ながら、もしわずかでも時間がずれていたら、駐機場に着く前だったら…。そう思うと背筋が凍り付いた。

 こんな事故に出合うたびに思うのが「ハインリッヒの法則」。一つの重大事故の背後には29の軽い事故がありそのまた背後には300ものトラブルがある。大惨事と紙一重だった今度の事故の後ろには何があったのか。徹底した究明を。

2007年08月20日

 手元に、届けられたばかりの一冊の句集がある。「DEPARTURE」。日本語に訳すと「出発」。作者は今年春、会社を定年退職した、いわゆる団塊世代一期生である。

 装丁も地味。名前の「北見光彦」も初めて。そして非売品。首をかしげたが、手に取ってみて題名も含めてすぐに合点がいった。実は作者は今春まで机を同じくした仲間。名前はペンネーム。あとがきに実直な彼らしい句集発行のいきさつや思いなどを記している。

 職場で身近にいた仲間は知っていたようだが、彼が俳句を始めたのは53歳のとき。俳句入門講座で手ほどきを受けた。「仕事は楽しかったが、仕事を離れたら何もなかった」とあとがきに言うように、目的は「脱会社人間」にあった。

 だからと言って、仕事を二の次にしていたわけではない。句集には定年までの444句を収めている。その中の一句。「ケータイも逡巡しゅんじゅんも捨て春の街」。会社人間を卒業して、さあいよいよこれから第二の人生、という気持ちの高ぶりと決意が伝わってくる。

 「2007年問題」としてくくられてきた団塊世代の定年。少子高齢化、年金制度の改正など社会が激変、これまで仕事一筋に生きてきた彼らの定年後は決して平らではない。働きたくても働く場がない。「熟年離婚」の増加も言われる。

 そんな中でどう生きていくかは、それぞれが見つけ出すしかない。「北見光彦」さんは定年の7年前からその準備を始めていた。彼は添え書きで「会社人間から一歩はみ出してよかったと思っています」。エールを送りたい気持ちになった。

2007年08月19日

 第二次世界大戦に日本が突入するきっかけに取り上げられるのが1931(昭和六)年に起きた満州事変。事実上の日中戦争だが軍部の独走ゆえ“事変”と表現されている。

 その後、リットン調査団は「日本の侵略行為」と断定した。中国側から見たらテロ行為にほかならない。この事変を指導したのが関東軍幹部だった。軍部は政治の関与を認めない統帥権を盾にしており、その後、軍人出身の首相などが独走を重ね国を破滅させた。

 その反省があって憲法66条で「内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない」と定められた。誰しもが戦争に思いをはせる8月に、国の危機管理に当たる防衛省内部で次官をめぐる内紛が起きるとは何ともやりきれない。

 就任5年目という大物次官、それを解任して警察庁出身の後任を充てようとした防衛相、防衛相のやり方に不満を持っていた官房長官―の三すくみとなった。が、大物次官は生え抜きの後輩を新次官に充てる捨て身の作戦に出て、防衛相と痛み分けに持ち込んだ。

 首相の指導力のなさだとか、お友達内閣の末路と批判するのはたやすい。その実、重大な問題を内包している。次官は制服組ではないとはいえ、法的にも文民ではない。つまり、文民ではない者が選挙で選ばれた文民へ異議をとなえた。

 今回の防衛省次官をめぐる抗争は組織内の“事変”もしくは“クーデター”との見方ができるかもしれない。忘れたくないのは官僚は組織存続のために前例を最も尊ぶことである。今回の件を前例としてはならないことは言うまでもない。

2007年08月18日

 高校野球を「もしかしたら20世紀の偉大な発明かもしれない」と形容したのは阿久悠さん。新聞連載(スポーツニッポン・新甲子園の詩)に球児の姿を追いながら記した。

 「人間の祭典として完成品が競いあう場でなく/未完成品が未熟を超えて/人々に夢や感動を与えるのだから」。いかにも高校野球を愛し、亡くなるまでエールを送り続けた阿久さんらしい。その本県にもなじみが深かった阿久さんにぜひ一文を書いてほしかった。

 きのうの甲子園での日南学園の戦いを見ながら、そう思った。逃がした魚は大きいと言うが、そんな表現がぴったりくるような悔しい敗戦だった。今春のセンバツ優勝校を終始圧倒。全く気後れすることもなく、土俵際まで追いつめた。

 あと一歩だった。それまで有馬投手が力勝負で強力打線を封じていた。この回を切り抜ければ、日南学園に勝利がぐんと近づく。それだけに8回のあの一球は悔やんでも悔やみきれない。甲子園には「魔物が棲すむ」と言われる。まさにあの回がそうだったのだろう。

 ベスト8を目の前にして日南学園の夏は終わった。「投攻守走」。すべてに全国レベル。県民の期待も大きかった。だが、選手たちは下を向くことはない。2試合とも延長戦を戦った実力は、大会でも間違いなく上位にランクされよう。

 チームのモットーである「一生懸命」、そして一球の怖さ、サヨナラ負けの悔しさを忘れない限り、道は必ず開ける。「夢は逃げない。また一から出直せばいい」。きっと阿久さんも、選手たちにそんな温かい励ましを送っているはずだ。

2007年08月17日

 天狗てんぐがすむと信じられ、今も狗留孫くるそん峡との地名が残る。小林名物のブドウとナシを求めた後、えびの市川内川上流へ向かう。涼と食の両方の欲を満たそうという試みである。

 こうも暑くては無理もない、川遊びする家族でにぎわっていた。水面みなもに足を浸したのか「ヒャー」という子どもの声が響き渡る。川の水は井戸水のように冷たい。一方で岩は灼 しゃく熱ねつをはらんでいる。行き場がなくなり、陸おかに上がったカッパのごとく川に飛び込んだ。

 あれほど冷たいと感じた水が、まことに心地よい。水底をのぞいたり流れに身を任せたり、童心に返った。深緑なのか藍あい色なのか何とも形容しがたい川の色も目にすがすがしい。泳ぎ疲れた体にブドウは甘露のように流れ落ちていった。

 太平洋高気圧の勢力が増し、日本各地で過去最高気温を更新する猛暑が続く。インドネシア近海の海面水温が上昇するラニーニャ現象が原因とみられるが気象庁は猛暑↓平年並み↓猛暑と長期予報に苦労している。幸い九州南部は平年並みというが、やはり暑い。

 この時期は熱中症が一番怖い。犠牲者の統計をとると65歳以上の高齢者が約6割を占める。体の調節機能が衰えており、水分補給を控える人が多いためだ。心臓病や脳卒中も意外と夏場に目立ち、体内の水不足が誘発させるという。

 屋外作業には朝夕が向くものの、太陽高度が低く白内障の原因となる紫外線も目に入る。つば広の帽子、サングラス、飲み水が熱中症と紫外線への対策セット。人によっては相当怪しくなるが、暑さに強い―と天狗になってもいられない。

2007年08月16日

 きのうに続いてもう一度、伝え、語り継がなければならない「62年目の夏」について。この夏、1冊の本が出版された。若い世代に戦争とは、平和とは、を問いかける。

 鹿児島県の知覧特攻平和会館編の「いつまでも、いつまでもお元気で―特攻隊員たちがこした最後の言葉」(草思社)。同平和会館が3年前に出した特攻隊員の遺書集「魂魄こんぱくの記録」から父母、きょうだいにあてた手紙33編を抜粋、今の若者向きに編集した。

 特攻隊員の遺品、遺影などを展示する同平和会館には、昨年も63万人が訪れた。だがほとんどが40代以上。ここでも若い人の戦争への風化が進む。「いつまでも…」はそんな世代へのメッセージ。戦争の愚かさ、命の重みを伝える。

 その中に本県出身者が2人。内田新一さん(えびの市)と阿部忠秋さん(宮崎市高岡町)。そのとき18歳だった内田さんが送ったのは祖父と祖母。「今度新一ハ○○ヘ鬼退治ニ行ク事ニナリマシタ。今度帰ルトキハキット『ルーズ』ノ首ヲ持ッテ帰リマスカラネ」。

 「ルーズ」はルーズベルト米大統領。最後に「何時いつマデモ何時マデモ元気デ、永生キシテ下サイ」。阿部さんは22歳。「父母上様をよろしくたのむ。とっても出来れば早く嫁に行きなさい。何もしてやれずすまなかった。さようなら」。

 妹を気遣う兄としての愛情がにじむ。最後の言葉はその後ろにあったであろう無念さを隠してどれも温かく、優しい。彼らが残した今も鮮烈に息づく思いを次代につないでいかなければならない。62年目の夏、そしてこれからもずっと。

2007年08月15日

 きょう正午、政府から重大発表がある―医学生だった作家山田風太郎は友人から知らされた。講義中に回されたメモにこう記されている。「休戦? 降伏? 宣戦布告?」。

 山田青年は迷わず宣戦布告の上に印をつけた。62年前の8月15日、ラジオから天皇の声が流れる。“帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃たおれたるもの、及びその遺族に想を致せば五内ために裂く…”。「僕は全身の毛穴がそそけ立った」のだ。

 日本は負けぬという教育を受けてきているから当然だろう。戦中派不戦日記(講談社文庫)に書いている。「天皇陛下のお声ってどうだろうな」「東海林太郎とどうかね」。ポツダム宣言の受諾放送を聞く前、そう話せる余裕もあった。

 実際には、天皇の声は悲痛に満ちていた。「自分は生まれてからこれほど血と涙にむせぶような声音というものを聞いたことがない」。漢語が多く聞きにくかった。近くのおばさんは「どうなの? 宣戦布告でしょう? どうなの?」とかすれた声で尋ねてきた。

 かつて年長者に“その日”を尋ね回ったところ、人づてに終戦を知った人が多かった。宮崎の海岸から米軍が上陸するという風説が信じられており、実際にそんな計画もあった。「死なずにすんでほっとした」と、正直に言う人もいた。

 いくら高齢化が進んだとはいえ、戦前・戦中の記憶を持ち続ける人は少なくなりつつある。語り続ける人がいる限り、耳を傾けるのは同時代に生きる者の務めでもある。これだけは休戦できない。きょうはまさしく“その日”なのだから。

2007年08月14日

 41年前を思い出している。重い気持ちでそのときの本紙を開く。「9人濁流にのまれる」「5人死に4人行方不明」「中州に孤立、救出できず」。痛ましい見出しが並ぶ。

 そして「激流にとどかぬ命綱」の見出しが何とも悲しい。1966(昭和41)年8月14日朝だった。都城市山之口町の青井岳キャンプ場で中州にテントを張っていた宮崎市・青島中の女生徒8人と教師1人が台風の影響で増水した川に流され、命を絶った。

 前夜は川幅6メートル、歩いて渡れるほどの深さ。ところが朝、様相が一変していた。川幅は30メートルにも広がり、目の前で濁流が渦巻いていた。中州に孤立した9人はテントを浮袋代わりに脱出を試みるが、力尽きて次々に濁流に姿を消した。

 あのときから41年。きのう朝、騒がしいほどのせみ時雨の中、悲劇の舞台を歩いた。女生徒たちの命を奪った境川は今もキャンプ場内を流れる。足を浸すと、ひんやりして汗が引いた。9人の運命を変えた中州はせり出してきた樹木に覆われ姿を消していた。

 ログハウスなどが整備された一角に地蔵堂がある。事故の翌年に安置された。今はそれしか当時につながるものはない。帰り支度を急いでいた中学生らしいグループがいた。だが聞いても41年前のことは知らなかった。風化が進む。

 今年の夏も延岡市の祝子川で高校生2人が水死している。夏休みも折り返しを過ぎた。夏空の下で弾む子どもたちの声が暗転しないよう、「41年前のきょう」のことを忘れないようにしたい。事故はいつもちょっとした油断につけ込む。

2007年08月12日

 「こんな小石でも何かの役に立ってる。星も同じ。おまえだって何かの役に立っているんだよ」。イタリア映画の名作「道」でフェリーニ監督は綱渡りの男にこう言わせた。

 家が貧しくて大道芸人に売られた少女は、自分が無能だと思いこんでいる。綱渡りの男は続ける。「この世の中にあるものは何かの役に立っているんだ。この石が無益なら、すべて無益だ」。この励ましで少女の綱渡りの男への切ない思いは、さらに募っていく。

 こんな数センチの小石が地球に飛び込んでくると、百キロの上空で美しい流れ星となって輝く。毎年お盆のころ、彗星のちりと地球の軌道が重なる。見える方角が星座と重なることからペルセウス座流星群と呼ばれている。今年は絶好の条件。

 12日夜から13日未明は闇夜で、流星群を観測しやすい。ペルセウス座は午後8時ごろ東の空に現れ、流れ星がピークとなる深夜2時ごろ天頂付近に達するという。小石が巨大な光となり秒速50キロ以上のスピードで走り来て、そして線香花火のように消える。

 流れ星の中心は放射点(輻射ふくしゃ点)と呼ばれ、離れるほど尾が長く見える。都城市高崎町たちばな天文台指導員・蓑部樹生さんは「窓から空を見上げても十分観測できます」。天気が心配だが、運が良ければ雲間から見えるかもしれない。

 どんなに急いでいても思わず歩みを止め、何かを願わざるを得ない。天空の小石が人を引きつけてやまない。蓑部さんの父・哲三さんは夜空に人生を投影させた数多くの歌を残した。「輻射点遠く離れし昴より金星にむかひ飛ぶ星のあり」

2007年08月11日

 初物を食べると75日長生きする、という俗説がある。旬に先駆けて採れる野菜や果物、魚介類を口にすると寿命が延びる。それだけ新鮮で体にも貴重ということだろう。

 先日、知人から岩手県・三陸海岸産の「イワガキ」が送ってきた。てっきり初物と思っていただき、食に季節感がなくなった近年はほとんど聞かれなくなった冒頭の俗説を思い出してうれしくなった。が、口にして思わず「?」となった。「なぜ、真夏にカキが…」。

 カキは5月から8月が産卵期。水温も上がって食中毒の心配も指摘されている。だから、昔から「Rのつかない月(5月から8月)のカキは食べるな」と言われる。なのに…。そこで調べてみたらイワガキは、その5月から8月が旬という。

 理由について三陸海岸でカキ養殖に取り組み、「牡蠣かき礼讃」(文春新書)の著がある畠山重篤さんはその中でこう記す。「イワガキは抱卵、放精ほうせいを少量ずつ回数を分けて行う。このため軟体部がどろどろにならず、うま味成分のグリコーゲンも蓄え、夏でもうまい」。

 「夏こそ安心してカキを楽しめるシーズン」というわけだ。ということで、厳密には「初物」ではなかったが、宮崎では容易に手に入らない自然の恵み。深海で育ち、サイズも300―400グラムと大型。初物の気持ちでじっくりいただいた。

 ところで、カキなら高鍋町蚊口浜の天然カキも負けていない。昨年はノロウイルスによる風評被害で痛い目にあった。夏は資源保護のため採取禁止という。解禁の10月1日まで2カ月。旬の味を堪能したばかりで待つのはちょっとつらい。

2007年08月10日

 鶏は暑さに弱い。庭先飼いをした経験のある人は覚えているだろう。日中は縁の下や緑陰で暑さをしのいでいる。喜んで水浴びするし、木に登って涼んでいる賢い鶏もいる。

 英語でチキンと言えば賢さは消えうせ、否定的あるいは排他的俗語で使われることが多い。いわく「青二才」「つまらない仕事」「犠牲者」「憶病者」。競争社会には度胸を試される運転になぞらえた「チキンレース」もある。負ければ犠牲者となるのだろうか。

 ウイルスは渡り鳥が運んでいるとみられており、夏場の鳥インフルエンザ発生はほとんどない。養鶏農家は今、屋根から水をまいたり鶏舎に断熱材や寒冷紗かんれいしゃを張ったりして、台風と並んで暑さ対策に知恵を絞るチキンレースを展開する。

 建設業界に目を移すとこちらもチキンレースにしのぎを削っている。今年に入り都城や延岡に本拠地を置く地場大手が民事再生適用や自己破産へ追い込まれた。公共事業の減少が最大の理由で、県や市町村による入札制度改革が淘汰とうたにいっそう拍車をかけている。

 行政が脱談合を掲げ一般競争入札を始めても、落札するのは大手ゼネコンと県内大手ばかり。それを中小業者が請け負う構図は変わらない。落札率が下がって割が合わないのは中小業者。こんなたたき合いの構図が繰り広げられている。

 宮崎市内の建設業者が官主導の入札制度改革に抗議の意味を込めて、県庁前で座り込んだ。民間信用調査機関は県内の建設業界で倒産や自主廃業が当分続くとみている。この業界には、暑さをしのぐ木陰や水浴びする場所はどこにもない。

2007年08月09日

 ノリウツギの白い花が緑に映えて、遠くから眺めると、まるで雪が降り積もったように見える。花は円すい状に密集して開き、そのすがすがしさにひととき、暑さを忘れる。

 立秋のきのう、えびの高原の「えびのエコミュージアムセンター」に電話した。聞くと、ノリウツギの白い花が涼感を漂わせ、不動池の近くでススキの穂もちらほらと目につき始めたという。まだ夏真っ盛りの中で、しだいに秋が近づいている光景が目に浮かぶ。

 気のせいか、電話の向こうからも涼しさが伝わってきた。予報では宮崎市ではこれからも30度を超す「真夏日」が続くが、暦の上ではきのうから秋。季節のあいさつ状の文言もこれからは「暑中見舞い」から「残暑見舞い」に変わる。

 さて、政界に目を転じると、際立って熱かった「夏の陣」が終わり、第2幕が開いた。こちらの方は参院選での自民惨敗で様相が一変。初の民主議長誕生、「衆参ねじれ」など初ものづくしの中で、秋に向けて残暑どころか、さらにヒートアップしかねない様相だ。

 とりわけ安倍首相が強烈な照り返しに遭って、熱中症寸前とも言える苦境に立たされている。歴史的惨敗の責任を問われ、党代議士会でも公然と退陣を求める声が相次いだ。面前での続投拒否にテレビに映る首相の顔が固まって見えた。

 党内からは「お盆明け退陣」の声もあがり、求心力低下が加速することも。戦闘モードに切り替わった民主の包囲網も強まる。季節の移ろいに浸る間もなく、政治の世界はかつて経験したことのない熱い競い合いの「秋の陣」になだれ込む。

2007年08月08日

 朝はせみの声で起こされる。虫に文句を言えるはずもなく寝汗のあとをかきながらしぶしぶ床を畳む。それが不思議なことに、昼寝どきは夢へいざなう幻想曲に早変わりする。

 人生を四季に例えれば、夏は若々しい青年期と重なる。だが古今和歌集の時代に生きた人はこの合唱を命の賛歌ととらえなかった。「空蝉うつせみのからは木ごとにとどむれどたまのゆくへを見ぬぞかなしき」(読み人しらず)。空蝉は世のはかなさを象徴するものだった。

 いくら虫好きの少年でも、1年で361個の蝉の抜け殻を集めることは難しかろう。残念ながら昨年はそれと同じ数の県民が自ら命を絶っていった。どれほどの家族や友が「魂のゆくへを見ぬぞかなしき」と嘆いていることだろう。

 県民の自殺者数は10年連続で300人を超え、昨年の人口当たり自殺率は全国5位となった。10年間で一つの村が消えたに等しい。自殺はその意味からして「社会減」だが、人口動態では「自然減」として計上される。人の世という自然は何と厳しくむごいことか。

 自殺者数は例年、交通事故犠牲者の約4倍になる。少し乱暴な計算だが、県警の2割の予算が交通部関係で使われているとしたら約60億円。これほどの予算を自殺対策に使っても罰は当たるまい。同じ「死」に軽重があるはずもない。

 県自殺対策協議会はきのう、総合的自殺対策に関する提言書で専門部署を置き数値目標も設定するよう知事へ要請した。蝉の声は生ける者に幻想曲となりうるが、死せる者への鎮魂曲と聴くのが正しいのかもしれない。平安時代と同様に。

2007年08月07日

 こんなに参院に熱い視線が注がれるのは恐らく参院が発足して初めてだろう。小泉政権時代の2年前、郵政国会のときも参院の動向が注目されたが、今度ほどではなかった。

 本来は「良識の府」「再考の府」であるはずなのに実際には「衆院のカーボンコピー」。そう言われても仕方がなかったのが先の通常国会での参院のありようだった。数の力を頼んで自民が衆院から回ってきた法案を丸ごと追認、「参院不要論」も頭をもたげた。

 それが選挙で劇的に変わった。参院選の結果を見れば、当然のことなのだが、自民の変わり様を見るとあらためて一票の力のすごさを実感させられる。「弱い参院」が「強い参院」に変身、主人公に躍り出て、がぜん国会が面白くなった。

 明治から戦後まで衆院議員を務め、憲政の神様といわれた尾崎行雄は自著「わが遺言」で国会の姿をこう論じている。「打ちとけて国家全体のために懇談熟議すべき場所」。熟議については「おのおの主張はあるけれども、それはごく穏やかに述べて互いに譲る」。

 だが安倍政権の国会論戦は、とても「熟議」とは言えなかった。それがこれからは変わる。変わらざるを得ない。民主も数の力で法案を次々につぶしてばかりでは自民と同じ道をたどる。そうなると、自民も民主も「熟議」によるしかない。

 参院に熱い視線が注がれるのはそんな期待もあってだ。きょう臨時国会が召集され初の民主議長が誕生する。民主主導で参院はどう変わり、「良識の府」復権への道筋はつけられるのか。間違いなく国会が面白くなる。目が離せなくなった。

2007年08月06日

 8月6日。この日を迎えると、その光景が立ち現れてきて、戦争の罪深さと重なり合って心を揺さぶる。5年前、宮崎市でアウシュビッツの悲劇を描いた特別展が開かれた。

 「フリードル先生とテレジンの子どもたち」。前にも1度、小欄で書いた。そのとき出品された「アウシュビッツのガス室の取っ手」。大人のこぶし大。何度、この取っ手でガス室が開かれ、閉められたのだろう。そのたびに罪もない人々が苦しみながら息絶えた。

 取っ手の向こうから死者の無念の叫びが聞こえてくるようで、それは無言のうちに、戦争のむごさを問いかけてきた。今も取っ手は鮮烈に語りかける。戦争の愚かさ、残虐さをいつまでも後世に語り、伝えていかなければならない、と。

 同じように、読むたびに語り継ぐ努力を決して忘れてはならないと心に刻む一冊の本がある。県内の被爆者112人の証言を網羅した「遺言・死者の無念を希望へつなぐ」(鉱脈社・2005年版)。広島と長崎で被爆したそのとき、それからを生の声でつづる。

 思わず目を背けたくなる生き地獄が分厚い証言集にあふれる。この本の1ページでもいい。被爆者の苦しみに目を通せば、あの許し難い発言、原爆投下を「しょうがない」とする言葉は出てこないはず。あらためてそんな怒りも沸き上がる。

 「忘れたい。でも忘れてはいけない。語り継がなければならないことを遺言として残しておきたい」。証言の1つひとつから被爆者たちの切々とした思いが伝わる。絶対に風化させてはいけない。62年目の8月6日。今年もそう思う。

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